日本酒事業を半世紀ぶり再起。紆余曲折の百年を振り返る。
大正13年創業、間もなく100年を迎える株式会社モリタミ取締役 森 將(もりしょう)と申します。令和3年、一度幕を下した日本酒ブランドをリブランド再起しました。
ここに至るまで我々は時代の流れとともに様々な局面に出くわしましたが、その時々に最善の判断と行動で、この仙台の地で商いをつづけてこれました。
今後はSAKE DRESS(サケドレス)の挑戦や背景をSTORYとしてお伝えさせて頂ければと考えておりますが、先ずは我々の辿ってきた歴史、紆余曲折の100年をご一読頂けますと幸いです。
1.創業、そして廃業
弊社は今から約100年前(大正13年)に名取郡(現在の宮城県仙台市長町)で日本酒の造り酒屋として創業しました。
仙台市中心部からも車で10分ほどの商業地域でありながら、温泉地で有名な秋保温泉の方面から約50年かけて地下を歩んできた伏流水(自然の天然水)がふんだんに溢れる恵まれた地でありました。
当時は森民酒造(モリタミ)という名で事業を営んでおり、それは、現在も日本酒製造を続ける、宮城県仙台市荒町にある森民酒造本家(総本家)と同県大崎市の森民酒造店(本家)より分家した由縁です。
そして名称を平成5年に改め、現在は株式会社モリタミとして活動しております。われわれの両本家は明治時代を中心に非常に繁栄しており、当時の長者番付では、東北1位・全国11位の約5000石数(一升瓶50万本、四合瓶125万本)を造っておりました。※かの有名な浦霞を石数で上回る時代もございました。よって仙台中心に地域で親しまれる日本酒として存在していたようです。
また芝居好きな総本家初代の民蔵は、劇場の「森徳座」も運営し、仙台中心部にある娯楽の一つとして当時は位置づけられ、現在では廃業はしたものの仙台の中心部にある通りを「森徳横丁」として残されております。
酒造業に加えて劇場も運営していたことから、当時は豪商と謳われておりましたが、自らの繁栄のみならず、政府へ金三千円(現在の6000千万)を寄附金としておさめていたと過去の記録には記されています。故に森民酒造を更に拡大を図り、弊社(モリタミ)も分家の一つとして創業したと聞いております。
我々の初代である 森 信吾 は「人に光を灯す」という信念を掲げておりました。それはスペイン風邪や関東大地震で現代と似た混沌とした空気の中で何かできないのか。と考え抜いた決断であり、代表銘柄を「民光(たみひかり)」と名付けた由縁です。味わいへの考えも特徴的で、辛口が主流の時代に逆らい、誰もが美味しく、水のように飲みやすい酒質を追求し、お客様に寄添う品質を求めました。
それは「我を信じる」という意味で「信吾」と名付けられた、初代の宿命であったのかもしれません。その姿や思想は多くの方に愛され、両本家には遠く及ばないものの、ピーク時は1,200石程度(一升瓶で約12万本、四合瓶で30万本)を造り、愛された日本酒であったと聞かされております。
寒仕込みシーズン(10月から4月頃)になると、南部杜氏はじめ数十の蔵人が県外から寝泊まりで毎日朝から晩まで日本酒に向合っておりました。当時の寝室や休憩所の暖房設備は十分ではなく、手や足がかじかむ中で、交代制で深夜まで作業していたようです。
しかしながら、時代に迎合せず丹精込めて造る「民光」に、不運な最期が訪れます。
昭和53年、宮城県仙台市にマグニチュード7超の大地震が襲い掛かり、明治時代に建てられ、本家より移築した酒蔵に甚大な被害が及びました。製造の心臓部である麹室はじめ酒蔵全体への被害。再建も模索しましたが、被害状況は想像以上であり復旧するハードルは高く、断腸の想いで大正13年より続けた日本酒製造の幕を下しました。
当時、初代より引継いだ二代目の故祖父、そしてその姿を追う三代目の父は、悲惨な姿を鮮明に覚えているようです。初代から引継いだ蔵が崩れる瞬間は言葉にならないほど辛く、また昔を知る地域の方々から惜しまれながらも製造免許を返納し、民光の暖簾を下したと聞いております。
その後は三代目の父を中心に、酒類卸と小売業を営み、業界の活性化に貢献してまいりました。また初代の信吾から受け継ぐ「人に光を灯す」という信念を下に、仕入れする日本酒やその他酒類を多数試飲し、知見を深めていきました。ただ一方で、長年自社ブランドを造ることに想いを馳せていました。
「人に光を灯す」日本酒をもう一度復活させたい。
その想いは年々強くなりましたが、時代の流れが変化し、ビールやワインが台頭し始め、自社ブランドはおろか、酒類卸や小売り業にさえ影響が出始めておりました。そして平成中期、卸や小売り業さえも幕を下し、森民酒造(モリタミ)としての一時代が終焉を迎えます。
時代の波。
と言えども、この判断は容易ではなかったと思います。私は物心のついていた年齢でありましたが、まだ自分事として捉えることはできませんでした。ただ何かが動いている空気だけはハッキリと感じとっていました。なお現在までに我々以外の酒造関係者の様子も変わり、お付き合いのあった酒蔵や小売店等も数多く暖簾を下ろしております。
2.再起
そこから数十年、令和3年。我々はもう一度、日本酒・酒類業界に戻る決断をしました。長年の想いを形にしたいということだけではありません。その背景には、森民酒造(モリタミ)の百年の刻を再び動かす当事者である私が、前職で抱いた日本酒に対する「乖離」と、グローバル化における「危機感」があります。
2009年、リーマンショックの影響が全世界に響いている中で全日本空輸株式会社(ANA)に総合職としてに入社し、駐在や海外出張を通じて10年の間グローバルビジネスに携わりました。
マーケティングをはじめ、ANAが世界中に就航する100エリアでパイロットが宿泊するホテルの選定・管理を行いました。1か月間の半分の間、世界中を飛び回るのが日常。その中で出会うビジネスパートナーは、オックスフォードはじめ世界トップスクールのMBAを取得した方もおり、中には30代前半でゼネラルマネージャーを担う方にも出会いました。
彼らはホテル宿泊だけではなく、ホテル内にある施設全てにおいて最高のサービスが提供できるよう全責任を負って運営をしており、当然ながらレストランもその一つです。我々が日本企業もしくは日本人のパートナーであるからか、日本語スピーカーを配置している・和食を提供しているとプレゼンされることも多く、また日本酒を扱うホテルもあった為、興味本位で現地の実情を質問をしておりました。
そこで分かったのは、日本酒に対する国内と海外の認識に乖離があるということ。
国内では海外輸出伸長と大きく言われています。それは様々な努力と挑戦によってもたらした功績であり全く否定するものではありません。現に欧米や中国・香港では年々日本酒を見かける頻度も高い印象でした。しかし海外における日本酒への理解は、アルコールが高い飲物、ショット、日本産と知らない、そもそも飲まれていない、というのが実態です。
我々は海外においても日本と同様の品質・体験を提供できる日本酒のブランド化を志すことで、この乖離をなくしたいと、そう考えています。(日本輸出:約300億、フランスワイン:約1兆円)
そして危機感。昨今の日本酒市場は国内縮小・海外伸長です。年々輸出額が増加している現状は素晴らしいことであり今後も継続して海外進出を強化するべきと思います。ただ一方で認知度が向上するにつれ、日本企業だけではなく外資も含めた参入が今後は考えられるでしょう。
現地生産・M&Aのあらゆる戦略により、日本酒の認知度・額は今後飛躍的に伸びていきます。しかしその時に、平安時代(諸説ある)に生まれ何百年と伝承され今も磨かれつづける技術を持つ酒蔵の歴史は今のまま残るでしょうか。
1970-80年代、日本企業の家電製品は世界をリードしておりました。一方で昨今の他アジア勢の台頭が日本企業を凌駕しているのは周知の事実です。
家電製品で起きた現象。
これは日本酒業界に起こりえないと言い切れません。ビジネスになると考えれば海外勢がとるだろう戦略は歴史が教えてくれます。故に酒蔵や日本が培ってきた文化や技術が形骸化する危機感があります。
3.最後に
海外勢のさざ波が大波となり、気づいた時には手遅れ。という事に私はしたくありません。この考えに反対意見もあるでしょう。むしろ異なる意見があるのが健全であり、時には自らに対しての叱咤激励になります。私は耳を傾け吸収をしながらも、自らが選択した道を信じて突き進んでいこう、そして100年を迎える会社を更に成長させていく。こう考えています。
「人に光を灯す」という100年受継がれる我々の想いを胸に次の日本酒文化を創っていくための日本酒ブランドSAKE DRESS(サケドレス)。
DRESSを纏い颯爽とあるく姿は人や空間に光を灯すように、「至極の香滴」「日本文化」を纏い「世界の情(こころ)を灯す」日本酒ブランドを常に志してまいります。
サケドレス開発ストーリーはこちら